信用金庫の電話
【第1幕:午後3時の事務所】
工場棟と壁一枚で隔てられた事務所には、切削油の甘い匂いが染みついている。
鈴木部長は、デスクの上に積まれた紙の日報をめくりながら、右手で胃のあたりを押さえていた。朝から3件目の納品トラブル。寸法の記録が手書きのメモにしかなく、どの工程でズレたのか追えない。田中さんに聞けば一発だが、田中さんは今日も別ラインに張り付いている。
高橋主任がラインから戻ってきた。作業着の袖で額の汗を拭い、自販機の缶コーヒーを開ける。目の前の壁に貼られた「確認印3箇所を忘れずに!」という手書きの貼り紙を一瞥し、すぐに視線を逸らした。
事務所の隅では、Windows 10のPCが「更新プログラムを構成しています」の画面のまま、もう20分止まっている。
【第2幕:「御社の事業継続体制について」】
佐藤専務のデスクの電話が鳴った。
「——はい、佐藤です。ああ、横浜みなと信金の渡辺さん。いつもお世話になって……」
専務の声が、途中から固くなった。
受話器を置いた専務の顔は青かった。鈴木部長が声をかける。
「専務、どうされました」
「……渡辺さんがな。来月の融資更新の前に、うちの『事業の仕組み』を見せてほしいと言ってきた」
「仕組み、ですか」
「ベテランが辞めても仕事が回る体制があるか。作業の手順やノウハウが、紙じゃなくてデータとして残っているか。そういうのを本部の審査で見るようになったらしい」
沈黙が落ちた。
鈴木部長は咄嗟に自分のデスクを見た。油染みのついた紙の日報の束。手書きの加工条件メモ。田中さんの頭の中にしかない補正値を、自分が聞き取ってExcelに手で打ち込んだファイル。「仕組み」と呼べるものは、何ひとつない。
「今までは渡辺さんの一存で通してもらえてたんですけどね」と鈴木部長が言った。
「渡辺さんもな、『自分の判断だけでは通せなくなった』と言ってた。本部が機械で自動的にチェックするようになって、担当者の裁量が効かなくなったんだと」
佐藤専務はネクタイを緩めた。
「……田中が辞めたら終わりだってことか。それを銀行にも見抜かれてるってことか」
高橋主任は、缶コーヒーを持ったまま、二人の会話を聞いていた。何も言わなかった。言っても無駄だと、2年前に学んだ。Googleフォームひとつ通らない会社が、銀行に「仕組みがあります」と言えるはずがない。
佐藤専務が、いつもの口癖を言った。
「……まあ、現場が落ち着いたら、少し考えるか」
鈴木部長は黙って頷いた。胃の奥が、きゅっと締まった。
【第3幕:午後11時の蛍光灯】
工場は静まり返っている。
鈴木部長だけが事務所に残り、今日の日報をExcelに打ち込んでいた。油汚れの紙をめくるたびに、指先が黒くなる。
ふと、田中さんが昼に言った言葉を思い出した。
「鈴木さんよ、俺の加工条件、全部メモしてくれてるのは知ってるけどな。あのメモだけじゃ再現できねえぞ。材質と気温と刃の減り具合を、指先で感じて補正してんだから」
——あと11ヶ月。
田中さんが定年で辞めるまで、あと11ヶ月。
その頭の中にあるものを引き出す方法を、誰も持っていない。銀行はそれを「リスク」と呼び始めた。
鈴木部長はExcelを保存し、PCをシャットダウンした。画面が暗くなった瞬間、ポケットのスマホが光った。妻からのLINE。「今日も遅いの?」
既読だけつけて、ポケットに戻した。
隣の工場棟では、旧型のNC旋盤が、明日の朝を待って沈黙している。
次の融資審査まで、あと47日。
▼ この構造欠陥に対する具体的な解決手段について
https://vai-ja.blogspot.com/2026/10/akia-ai.html
📊 [【裏付けデータ&構造解剖】なぜダイナ・プレシジョンでこの事態が起きているのか?(データ解説記事へ)]

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